2014年10月2日木曜日

犯人捜し

何かにつけて、世の中こぞってマスコミも参加しての「揚げ足取り」「犯人捜し」そして犯人を寄ってたかってこき下ろす。自分はともかく他人の間違いを指摘することによってカタルシスを覚えるのだろうね。間違いだって瓢箪から駒で真実をあぶり出すこともある。なにより怖いのは間違いを怖れて何も発言しなくなること。最近気に入っている言葉。
Good judgment comes from experience and experience comes from bad judgment.

2014年6月17日火曜日

DVDレビュー”Knowing The Score"

 ほんの気まぐれで図書館で手に取ったDVD。これがなかなか面白かった!
 Malcolm Bilsonというピリオド奏法のピアニストのコーネル大学でのレクチャーを収録した”Knowing The Score" というもの。
C.P.E.バッハやレオポルト・モーツァルトの演奏論を援用しながら、もともと楽譜の意味していたはずの約束が現代ではかなり変容していることを説明する。
 たとえば、ベートーヴェンのピアノソナタ第一番Op.2-1一楽章の冒頭のモティーフ「ド/ファラbドファ・・・」の「ファラbドファ」にはスタッカートが付いているのに「ド」には何も付いていないのは何故か。本来、弱起は「軽く、短くそして弱く演奏されるべきもの」なのでスタッカートは不要なのだと彼は説く。たしかに僕らもアウフタクトは軽くとは「知っては」いるが実際はどうだろう?実際にCDを聴き較べると、アラウやブレンデルを含むほとんどすべてのピアニストがこのアウフタクトをレガートで、場合によってテヌート付きで強調して演奏する。たしかに僕らも弱起は「軽く」とは知りながら「ほ/たーるの/ひかーり」の「ホ」はかなりネットリ歌ったりする。
 さらに、四分音符4つで「ドシラソ」という音符の上にスラーがかかった場合。我々は「音を切らずに滑らかにレガートで」と認識している。しかし、レオポルト・モーツァルトによればこれは驚くべきことに本来「ディミニュエンド」を表す、というのだ。二番目のシは最初のドより弱く、最後のソは4音中一番弱く短い。なるほど、たしかにこう考えるとフレーズ仕舞いの乱暴な演奏はなくなる。
この考え方で、例えばモーツァルトのピアノソナタK332ヘ長調の冒頭の解釈を考えると。有名な「ファーラ/ドーラ/シb−ソ/ファミミ・/」という奴である。ヘンレなどの原点版によればスラーはファーラ、ドーラ、シb−ソ、ファミの4つに分けてかけある。したがってここは繊細な強弱や音の長さのコントロールが要求される。
 ところが、、で、ある。日本で出回っている一般的な楽譜を含めて多くの版ではこの四小節間に通しでスラーがかけられる。これはあんまりだ。多くの指導者は初学者の演奏が「細切れ」=小節毎の小さなフレーズぶ閉じてフレーズ感の感じられない演奏になることを嫌う。その為にこうした校訂がされるのはわからないでもない。しかし、依然として作曲者の意図に不誠実である印象は拭えない。
 もちろんマルコム・ビルソン含め多くのピリオド奏法のピアニストが演奏に用いるのは現代のコンサートピアノではなくヒストリカルピアノであり、現代のピアノによる演奏が必ずしも作曲者の意図を100パーセント反映されたものにならないのはやむを得ない。しかしもともとの発想が4つに分かれたスラーで作曲者自身によって記譜され、さらにスラーの含有する意味合い(少なくともモーツァルトは父親レオポルトに厳しく叩き込まれた「その意味合いにおいて」スラーを用いているはず)を正確に理解した上での現代的なinterpretation(解釈)という意識で汎用されている楽譜を捉えている音楽家がどれほどいるだろう。
 ビルソンの講義はさらに付点リズムの長い音符と短い音符の比率や、3/2と3/4の違い、さらに声楽におけるポルタメントの扱いなど多岐にわたって続けられる。。面白いのは、ショパンなどの「テンポ・ルバート」は「右手のメロディーを左手の伴奏とはずらして演奏する」ことを要求したものだという。

 もともと、僕はピリオド奏法というものがあまり好きではない。以前もFacebookでロジャー・ノリントンの演奏をボロクソに貶したこともある。そもそも「伝統的慣習」を盾にした「音楽的でない演奏を」有り難がる風潮には辟易することが多い。しかし、西洋音楽の伝統的なシンタックスを熟知し作曲者の意図を正確に汲み取ることは大切なことと思う。その上で現代の楽器、現代の奏法や感性でどう表現するかは別の問題だ。
 そんな当たり前のことを、改めて考えさせられる興味深いプログラムだった。
プロアマ問わず多くの音楽家にとって視聴する価値のある良質なDVDである。

Amazonで購入出来るようだし、音大の図書館などには字幕付きのものも配架されている事と思う。

http://goo.gl/T6HCH7

下記クリップは冒頭近くのほんの一部
https://www.youtube.com/watch?v=az9NWZ2PGGg

2014年2月8日土曜日

巷で話題の作曲者詐称について同業者の見解


 巷で話題の佐村河内という人物の作曲者詐称に関して。
 ネット上でも意外に代作者に非はなかったという論調が多い。むしろ名声のためでなく素敵な作品を書き続けた純粋で才能溢れた被害者という同情が多いように思う。確かに音大出たての若い作曲家にとって、札ビラきられて代作を持ちかけられれば一も二もなく引き受けるだろう事は、僕自身経験から実感として判る。ただそれを20年ちかくも延々と続けてきたとなれば、音楽家としてというより人間としての何かが少々欠けているという気はする。まあ、見たところ内気そうな当該人物、周囲によれば誠実な人柄のようであるし、つい言い出せずズルズル続けたのかも知れない。
 代作氏に較べて中心人物のいかがわしさは明白だ。言うことなすこと怪しくて相当なペテン野郎とは思う。とんでもない奴だ。
 だが、ふと考えるのだ。今回多くの音楽愛好家が「奇跡の」という謳い文句で騙された当の作品はいったい誰の作品というべきなのだろう。勿論、音符もかけない自称聾者の作品ではなく全てを書き上げた代作者の才能ゆえに仕上がったものだという人は多い。
だが僕の意見は少し違う。
 報道された作曲指示書なるものを見ると、驚くほど緻密なものだ。細かい区分に分かれた指示はかなり具体的で明解だ。イメージの元となる具体的な過去の音楽作品の例示にはじまり、音符はないまでも作風に関する技術的な要請やヒント。更に決定的なのは時間軸に沿った大雑多な緊張感や盛り上がりのフォルムまで決めてある。
 僕も比較的大規模な作品を書く時、心覚えや設計図として使うためこの種の表を作ることがある。箱書きと呼ばれるこの種の表の役割でもっとも重要なのは、時間軸にそってどの様な楽想なり音楽的な事件なりが展開するかの決定である。例えれば、8時に始まる時代劇でご老公の一行が8時何分にどんな事件に巻き込まれ、何分後にそれがどんな展開をし、同時にお待ちかねのお色気入浴シーンは何分にあり、悪代官と強欲商人の密談は何分からでその何分後にどんな長さのチャンバラがあり「ご紋の印籠」はいつ登場するか。ここまで決まればあとは細かい台詞をきめれば一話完成だ。

「机の横に置き、ある種のヒントとして、作曲する上で必要なものだったと思います」という代作氏の言葉が、その重要さを物語る。この感覚、世間の人達が理解するのは少し難しいかもしれない。

 元来作曲は地図のない旅のようなものだ。大天才でない限り標のない彷徨いは辛い。紙切れ一枚でも、すがる物が有れば大きな力になる。

 実際、作曲の作業で最も苦労するのは音符を並べる作業ではなく「何を」「どの様に」表現するかを絞り込む作業だ。いわゆるゼロをイチにする作業。これが決まってしまえば技術をもった作曲者ならば、あとは地道な作業が残るのみといってよい。もちろんその後の工程で、たまには天から降って湧いたような素敵な楽想や巧みな表現がうまれる事もあるわけだが、そうしたセレンディピティーはなくてもそれなりの作品はできるものだ。

 つまり作品の出発点となるある意味では最も重要な作業をペテン師君がしたのだから、彼が自作と言い張ってもあながち嘘ではないともいえるのだ。僕が言いたいのは、善し悪しは別として作品の成立過程におけるペテン師くんの果たした役割を世間では過小評価しているということだ。

 仮にペテン師くんの指示書なしに代作氏に今までと似たような世界観の曲を書けといっても難しいだろうと思う。意外に世間が気付いてないのは、お涙頂戴のストーリーで騙された悔しさはさておいて、冬の時代のクラシック界にひと時の人気をもたらした一連の作品は、この二人の奇妙な男達が出会い、それぞれの立場で自分の役割を果たした結果生みだされたということだ。

 
 だからペテン師くんを許してやれという積りは毛頭無い。
問題の作品はどれも、オリジナリティはないが美しい曲だ。ただ、それ以上でもそれ以下でもない。いまこの騒ぎの中で性急に代作氏を庇ったり持ち上げたりするのは、あまり後味の良くない騒ぎの上に、更に似たような神話を積み重ねるようものだと思う。当の作曲家にも不幸なことだ。

 性急に貶したり持ち上げたりしなくとも作家や作品はやがては世の中に適性な居場所を見つける・・たぶん・・・いや、そういうものだと信じたい^^;